
クリティカル・シンキング
『なぜ?』『どうして?』と考えるだけではダメです。そんなことをしたってろくな文章なんぞ書けません。そこでもう1つ大切になってきます。それは、本当?
…です。下の文章を読んで考えてみましょう。
昭和39年当時、輸血に供される血液の実に97.5%は売血によるものだった。
血液銀行へ行くと、400mlの血液が1650円で売れた。これは一日中炎天下で重労働して得られる日当に相当する額であった。ちなみに、カツ丼一人前が120円だったころのことである。
医学の進歩に伴い、外科領域では手術が盛んに行われるようになった。今と違って、少し複雑な手術になると大量の輸血を必要とした時代である。手術の増加で血液の需要が加速度的に増えた。
一方、車社会を迎えて交通事故が急増し、血液不足に一段と拍車がかかった。
売血を扱う商業血液銀行にとっては、圧倒的な売り手市場であった。
商業血液銀行は、勿論慈善事業をしているわけではない。企業である以上、利潤追求するのは当たり前だ。とはいっても、扱っているのはほかならぬ輸血の血液である。そこにはおのずから商道徳とか、節度というものがあってしかるべきと思う。
ところが当時の商業血液銀行には、道徳や節度などはかけらほどもなかった。
血液の需要は増える一方だが、血液の提供者つまり売血者の絶対数には限りがある。やがて法を犯して頻回に採血が行われるようになり、常習売血者が誕生した。
そこに、まるで砂糖に集まる蟻のように暴力団が群がった。
かくして、商業血液銀行のモラルを逸した利潤の追求、常習売血者の頻回採血による血液の質の低下、そして暴力団の暗躍という、容易に想像し得る「悪の構造」がたちまち現実のものと化したのである。
監督官庁である厚生省や実質的管理責任の立場にある東京都の薬事課は、このような売血の実体を何一つ把握していなかった。それどころか、血液の供給不足を解決するための何らの方策も立て得ぬまま、むしろこれら商業血液銀行の後押しをしている始末であった。
血液がいくらでも欲しい血液銀行は、ついには売血者自身がひどい貧血や、栄養失調という極めて粗悪な血液でも手当たり次第に買い上げたのである。
国が、営利目的の民間企業に血液事業を認可したことがどだい間違いの元なのだが、それはともかく、こうして、劣悪な血液がどんどん製品化され、輸血に供されていった。
その結果、輸血を受けた患者さんが軒並み肝障害に罹ったのである。
当時在日アメリカ大使であったライシャワー氏も例外ではなかった。
ライシャワー大使が血清肝炎に罹ったことがきっかけとなり、それまで当たり前に行われてきた売血が”黄色い血の恐怖”として大きく世に問われることになった。
昭和39年のことである。
当時私たちは東邦大学医学部4年の学生であった。
よしんば血清肝炎に罹ったとしても、何かしら治療の方法はある。しかし、血液がなければ手術をすることができない。「輸血後の肝障害は覚悟の上で……」と医療関係者の誰もがそう考えていた。
そして、厚生省もまた血液が人工的に作り出せない以上、血液の売り買いもこれやむなしと公言してはばからなかった。
私たちは、この事態を黙って見逃すわけにはいかなかった。
12人の仲間が集まって「血液問題研究会」を結成。売血撲滅を目指して立ち上がったのである。
(売血 若き12人尾医学生たちはなぜ戦ったのか 近代文藝社 1995)
引用した文章もと:大分県立看護科学大学入試問題より
問題:以上の文章から、昭和39年代に起こりうる犯罪と悲劇を想像せよ。問題:『現在の日本社会は物質的に豊かになったが精神は貧しくなった』といわれることがあるが、上のような状況の昔の日本社会と今の日本社会を比べ、具体的にどのように精神が貧困になったのか、昭和39年代の人々はどのように精神が豊かだったのか、上の想像を踏まえた上で、あなたなりの答えを見つけなさい。
さて、上の文章は、小論文問題集で見かけた問題を引用し、問題自体を変えました。本来は看護学科の小論文ですので、問題自体、献血に関する『常識問題』を中心に構成されています。それを変えて出したテーマが上の問題です。
これをお読みの方も耳にしたことがあるでしょう。現代の社会を表して『精神の貧困』だの『犯罪の凶悪化』だのといった話を。『昔に比べて精神が貧困になった。心が貧しくなった』と言われます。
けど、本当ですか?
上の文章をよく読んで下さい。昭和39年の社会状況を考えて、どのような悲劇が起きていたことでしょう。想像しようとしただけでゾッとします!
本当に昔の人は『心が豊か』だったのでしょうか?
現在の社会で起きる信じられないような事件は『心が貧しくなった』から起きるのでしょうか?
先日、NHKの夜中の番組で、昔の白黒フィルムを放送していました。
その白黒フィルムは『駅』をテーマに、カラーテレビが普及していなかったような時代、私が生まれるずっと以前の昭和の姿、日本の風景を映していました。その風景に映し出される情景を見て、『こんな時代もあったんだ。』と感じました。
そのフィルムの中で、私が生まれるずっと前の新宿駅を映していました。そこには通勤するサラリーマンの姿も映し出されていました。それを見て唖然としました。
当時の通勤電車では、今のような『整列乗車』何ぞありゃしません。電車が来て扉が開くと、一斉に豚が餌に群がるかのごとく入口に殺到したのでした。
その光景を見て、私の子ども時代の経験を思い出しました。
やはり電車に関する話ですが、地方の叔母の家へ遊びに行くということで、上の駅で電車を待っていたときのことです。駅のアナウンスでは、次に来る電車は全て自由席の電車で、2つ扉の電車が来るとのことでした。
そこで、乗客たちは2つ扉の電車用乗車目標で待っていました。
ところが、実際に来たのは3つ扉の電車でした。たまたま列の外れでふらふらしていた妹(幼稚園児)の目の前に3つ目の扉が止まり、それに気がついた妹がそこから乗りこもうと、3つ扉の前に立って開くのを待っていたその時、周りにいた大人たちが一斉に3番目の扉に殺到しました。小さな妹の存在を全く無視し、です。
パニックになりました。
誰が?って、豚のように殺到する大人たちが、です。
我先に、他人のことなんぞ、小さな子どものことなんぞ全くお構いなしに殺到しました。
一瞬で妹の姿が私の視界から消滅し、殺到した豚野郎たちに踏み潰され泣き叫ぶ声だけが聞えてきました。
その情景を見て父が怒鳴りました。
『子どもがいるんだ!きちんと並べ!』
さて、
こんな時代の人たちのどこが『心豊か』なのでしょうか?
昔の日本人のどこが『心豊か』なんでしょうか?
前述の話を踏まえた上で『今の日本人は物質的に豊かになりましたが、精神的には貧しくなりました!』なんて堂々と書いてある小論文を読んだら、あなたならどう感じますか?
私は『結論が間違っている』というのではありません。
自分の頭で考えたかどうかと言いたいのです。
私から言わせれば現代人の方が遥かに心に余裕があり心が豊かです。
『都会の人はいつも心が貧しい』?
いいかげん騙されないようにしましょう。
ちゃんと勉強しましょう!
凶悪犯罪だって、現在の方が圧倒的に少ないのです。
昔の人に信じられない事件が現代に起きても、前述の血液銀行の話を見れば分かるとおり、昔は現代人にはとうてい考えられない事件が沢山起きていたのです。
常日頃、常識だと教えられてきたこと、実は嘘だらけなのです。
いいえ。嘘ではありません。
見方によっては、全く違う結論に至る可能性を含んでいるのです。
常識とは、決して絶対的なものではないのです。
認知症の疑いがあるような老人に限らず、年をとった人間というのは、昔のことを美化し、平気で嘘をつき、若者たちに偏見を与えるという悪い癖があります。これは仕方のないことです。そうでもしなければ自分の『負け犬人生』がより惨めなものになってしまいますから。
しかし、そんな負け犬たちが口にする嘘だらけの郷愁を真に受けて小論文を書いたところで、その文章にどれほどの価値があるのでしょうか。
人から聞いた話を鵜呑みにせず、また、人の判断に頼るだけでなく、自分の目で見て、自分の頭で考え判断すること、それが小論文の課題に他なりません。
自分の血液400mlが1650円で売れる…。
今のお金の価値で考えたって良い儲けですよね。
小論文が書けるということは、読解力向上にも大いに役立つわけです。なぜなら、現代文で出題される文章の著者と同じように文章を書こうとするからです。